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8.丹波口
五条通りの西の端にJR山陰線の丹波口駅があり,このあたりに丹波口の関所があったと思われます.丹波は米の生産地帯で,一面に広がる「田波」が転化したと言われますが,同時に大陸からの古代文明が京都盆地や奈良盆地へ向かう道筋でもありました.京都盆地と丹波平野との境には「老いの坂」という峠があり,これは年寄りにはつらい坂と言う意味のようです.現在はトンネルがあって車で短時間に抜けられますが,明智光秀は丹波から本能寺に攻め込むときこの峠を越えて来ました.光秀は美濃土岐源氏の正統ですから,織田信長より家格は上と思っていて,信長から受けたひどい仕打ちに鬱屈した心境があったことは理解できます.高い教養と宮廷作法を心得ていて,朝廷の信頼も厚かったようで,本能寺の事件も公卿層の支持を得ていたとする見方があります. 丹波口駅のあるJR山陰線はもと平安京の南北メインストリート,朱雀大路の跡に敷設されたものです.当時の朱雀大路は幅85メートルあったと言いますから,外国の使節団が行進しても十分の広さがありました.南の端には羅城門があり,両側に東寺と西寺が建っていました.このうち東寺だけが現在も残っています.明治になってまだ空き地になっていた朱雀大路を山陰線に利用しました.丹波口の近くには島原の遊郭がありますが,元来は六条三筋町と言って,今の東本願寺の北あたりの街中にあったものを,豊臣秀吉が京の西端に持って来たもので,風紀上の隔離施設でした.島原という名前は丁度九州で島原の乱が収まった時であったから付いたと言われますが,一説では湿地帯の中に造成した区画が島のようであったからとも言います.角屋(すみや)とか輪違屋(わちがいや)が代表で,残った建物は重要文化財になっています.幕末には新撰組の居た壬生の屯所に近く,隊士は毎日のように島原で遊興をしたと言います. 山陰線はもともと国営ではなく,京都鉄道と言う私鉄で,京都と亀岡を結ぶ路線でした.現在JR京都駅の西の端に遠慮して短い山陰線のホームがあるのは,私鉄乗り入れの名残です.京都駅を出ると北に向かい,
亀岡は明智光秀の居城のあったところで,もとは亀山と言いましたが,明治になって伊勢の亀山と紛らわしいので亀岡と変更されました.しかしJR亀岡のすぐ南に見えるのは今も「亀山城」で,現在は大本教の亀岡本部になっています.戦国時代は波多野氏の居城でしたが,1578年(天正6)明智光秀が攻略して3層の天守閣を建てました.光秀は租税減免,河川修復など善政を敷いたので国人達に大きな信頼を得ました.しかし山崎の合戦で敗北し,非業の最期を遂げました.その後城は転々と城主が変わりましたが,最後は松平氏のものとなり,明治に及びます.綾部に立ち上げられた大本教が発展して亀山城を買収したため,城内に大本教亀岡本部が置かれています.ただし城の見学は受付で申し込めばすぐ許可が出ます. 亀岡と京都盆地を結ぶもう一つのルートは保津川(大堰川とも言う)の流れです.すでに平安期から材木を筏に組んで流していました.当時の和歌に「筏師よ紅葉に心を奪われて棹を誤るな」と言う意味の一首があります.昔から美しい景観が知られていたようです.江戸期に入ると京の貿易商であった角倉了以(すみのくらりょうい)が岩礁を砕き,底の浅い船に米,炭その他の雑貨を載せて輸送できるようにしました.山陰線の開通と共にこの輸送手段は消滅しましたが,渓流を下る観光船に人気が出て,大勢の人々が春秋の景観を楽しむようになりました.トロッコ電車で嵯峨から亀岡まで絶景を上から眺め,帰りは船で彩り鮮やかな岸を見上げながら嵐山まで戻るというのは,贅沢な一日のスケジュールです. |
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