センサーの知識
 穂積啓一郎

1.はじめに

 桓武天皇が平安京を建設して新しい都ができると,全国各地と人や物の行き来が多くなり,次第に道路網が発達しました.京都は周囲を山に囲まれた地形ですから,外に向かう道路は川沿いや谷を縫って作られましたが,なるべく平坦で安全なことが望ましく,長い経験から目的地ごとに市街から出てゆく道筋が決まりました.街道は数を絞ったほうが整備や防衛上の見地から都合がよいので,古くから「京の七口」と称して都の出入口にされてきました.時代によっては必ずしも七口に固定されていた訳ではなかったようで,また名称にも変遷がありましたが,「七」は陰陽道で良い数らしく,七草粥,七福神,七五三,親の七光りなどに使われていて,京の七口は今でも生きています.

 歴史上に「七口」と言われるものが登場するのは,鎌倉幕府が成立したときで,鎌倉が南の海岸以外周囲を山に囲まれていて,防衛上は好都合であった半面,外部との交通が不便であったのを,「切り通し」と称して人工的な細い通路を作ったのが始まりです.今も名越(なごえ)切り通し,化粧坂(けはいさか)切り通し,極楽寺坂切り通しなどいわゆる「鎌倉七口」が残されています.岩山を刳り貫いたもので,馬がやっと通れるほどの幅ですが,いざという時は石や木で塞いでしまえる用意がしてあります.

 「京の七口」と言われるようになったのも鎌倉七口に倣ったものですが,
室町期の七口
道そのものはずっと昔の平安期からありました.室町期になって応仁の乱が始まると,足利義政の妻,日野富子が疲弊した幕府の資金を集めるため,京の入り口七箇所に「率分所(そつぶんぜき)」という関所を設け,人の通行と荷物の量で税を徴収したので有名になりました.都に出入りする度に税を取られることになったので庶民の反発もあり,人々の記憶に強く残りました.歴史書を見ると義政は政治を顧みず,芸術や建築に凝って浪費型の性格であったようで,人間関係の調整にも努力せず,細川と山名の対立を招き,都を荒廃させてしまいました.そんな中でも東山山荘(後の銀閣寺)の建設には情熱を燃やし,おかげで現在も京都の代表的な観光資源として大勢の人々を引き付けています.一方日野富子は藤原家の名門の出ですが,夫の義政よりよほど実務的手腕があったようで,京の七口で関銭を集め,疲弊した公卿や武士に高利で金を貸し,また米を買い占めて値上がりを待って売り,巨額の富を築きました.二人の性格が違い過ぎたか義政は室町の御所を去り,出来上がったばかりの東山山荘に移り住んでしまいます.

 人が出入りするのは街道ばかりではなく,水路も大いに利用されました.人を載せた舟も往来しましたが,重量物の運搬には特に必要で,鉄道やトラックのない時代,瀬戸内海や日本海側の産物は淀川や保津川の水運によって都に運ばれました.もう一つ琵琶湖という素晴らしい輸送ルートもあり,穏やかな湖面を大型の帆かけ船で大津と湖北の今津や海津までを結びました.今津や海津からは峠を越えればすぐ日本海に出られます.水路については別の機会に記述したいと思いますが,本稿では京都盆地を中心に人々が街道に向けた出入り口についてお話します.
 

→NEXT